今月1日は祖父の命日であった。墓のある北鎌倉の、縁切寺で知られる東慶寺境内は、梅ははやくも終わりだったが、今でも多くのファン?が参拝に、賑やかな墓参だった。「暑さ寒さも彼岸まで」と言うが、とくに本年は暖か、春分の日を挟んだ前後三日、計七日の彼岸時期には、桜も満開になりそうだ。
春分は24節気の中でもとくに大事な節目で、昼と夜の長さが同じになる日だ。祭日を利用した墓参は、すっかり日本人の生活に定着した歳時記だが、こうした風習はどのようにして生れたのであろうか?
お彼岸は、サンスクリット語の「波羅蜜多」を訳したもので、本来はこの世を意味する此岸に対し、現世の苦しみを修行によって克服した悟りの境地を向こう岸、「彼岸」としたのであった。仏教では彼岸、つまり極楽浄土は西方の遥か彼方にあると考えられていて、平安末期に末法思想が蔓延すると、浄土教の阿弥陀仏にすがり、極楽浄土に往生し成仏する、という教えと結びつき爆発的に広まった。春分と秋分は太陽が真東から昇り真西に沈むので、沈む太陽に極楽浄土への往生とを重ね合わせ、その願いを込め礼拝したのである。浄土教の隆盛は、我々の奥深く、縄文の昔から蓄積した日輪への特別な思いと無縁ではないと思う。
太陽を求め、東へと向かった倭姫のように、この時期女性には日祀りをする風習があり、春分と秋分の日の出から入りまで、太陽を追って歩いたのである。初日の出や落日に自然に手をあわせるのは、「民族の記憶」がなせる業であり、理屈ではなく太陽信仰が、今でも脈々と受け継がれているように思う。
僕にとっての日想観は、小学校五年のときの体験に基づく。初めて祖母と旅行し、奈良県の大神神社に連れて行かれ、「朝陽はこの背後の三輪山から昇って、夕陽はあの二上山に沈むの」と言われたことがきっかけだった。無論そのときは何のことかわからなかったが、駱駝の背のように二つに分かれ真ん中に夕陽が落ちた光景を忘れることはできない。
「うつそみの 人にある吾や 明日よりは 二上山を弟世とわが見む」
哀れな最期を遂げた大津皇子を偲んで、姉の斎宮であった大来皇女が詠んだ歌である。麓には謡曲「当麻」や中将姫伝説で知られた古寺、当麻寺もある。わが国でもっとも古い竹内街道から峠を越えた一帯は聖徳太子、小野妹子、推古天皇など飛鳥時代の「王家の谷」と言える御陵が点在する。思えば恵心僧都もこの地出身である。僕はこうした歴史、過去を想わずして、二上山の落日を拝むことができない。物語と風景とが絡み合って、夕陽も違った夕陽になるのである。きっと太子も筋違道を馬に乗りながら、沈む夕陽に陰をみて、死と無常を感じ、自身の眠る地をも定めたのではないだろうか。
長らく稲作を礎に従事した民にとって、季節と太陽の運行を正確に把握することは生命に関わることであった。時計などがない時代、春分を基準に種蒔の時期を決め、人々は鋭敏な神経で自然と、そして太陽と向きあってきた。彼岸の中日には、太陽の恵みに感謝しつつ、祖先に手を合わせたいものである。
白洲信哉
1965年東京都生まれ。細川護煕首相の公設秘書を経て、執筆活動に入る。その一方で日本文化の普及につとめ、書籍編集、デザインのほか、さまざまな文化イベントをプロデュース。父方の祖父母は、白洲次郎・正子。母方の祖父は文芸評論家の小林秀雄。主な著書に『小林秀雄 美と出会う旅』(2002年 新潮社)、『天才 青山二郎の眼力』(2006年 新潮社)、『白洲 スタイル―白洲次郎、白洲正子、そして小林秀雄の“あるべきようわ”―』(2009年 飛鳥新社)、『白洲家の流儀―祖父母から学んだ「人生のプリンシプル」―』(2009年 小学館)、『骨董あそび―日本の美を生きる―』(2010年 文藝春秋)ほか多数。近著は、『美を見極める力』(2019年12月 光文社新書刊)。
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March 16, 2020 at 05:57AM
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