「新型コロナウイルスに対するワクチンも存在せず、治療法さえない中で、専門家は国民のうち最大で60~70%が感染すると見ています」。新型コロナの感染拡大がアジアから欧州へと広がる中、ドイツのメルケル首相は3月11日にベルリンで開いた記者会見の冒頭、こう発言した。主要メディアが「ドイツ人の7割が感染も」と速報で伝えると、国内には強い衝撃が広がった。【外信部記者・中西啓介】
事実を客観的に述べるショック療法で始まった会見は、欧州を襲った数々の政治的、経済的な危機を解決してきたメルケル流危機管理術の教科書のような内容だった。こうした手腕はどう培われてきたのか、「メルケル神話」の源流になった金融危機の裏側を元政権幹部への取材で振り返り、新型コロナ危機が欧州の未来に及ぼす影響を考察した。
◇「国民の7割がコロナ感染か」衝撃発言の意図
衝撃の記者会見で、メルケル首相が国民に求めたのは以下のような対策だった。
1)1000人以上が集まる集会は中止する。小規模集会についても再考する。
2)せっけんで20秒以上かけて手洗いすることや、せきをしている人に近づかないなど感染症研究機関のガイドラインに基づいた行動を取る。
そしてその目的について、できるだけ感染拡大を遅らせて「時間を稼ぐこと」と説明した。また、独政府がワクチン開発に財政支援し、欧州各国と感染拡大阻止のためあらゆる連携を深めることを表明した。
メルケル氏は歴代の独首相の中で唯一理系の博士号(物理学)を有し、東独時代はベルリンの物理化学研究所の研究者だったという異色の経歴の持ち主だ。ベルリンの壁崩壊(1989年)に始まる東独民主化期に政治の世界に入り、中道右派の国政第1党、キリスト教民主同盟(CDU)に所属。「統一宰相」と呼ばれたコール首相(CDU)の秘蔵っ子として政界のキャリアを積んだ。典型的な政治手法は、客観的なデータを重視し、左右を問わず実現可能な政策の中から、天性の勘で中道支持層の理解が得られそうなものを選ぶというものだ。
今回も記者会見の冒頭で感染症の専門家によるデータや学術的な見通しを紹介し、現状でウイルスそのものに対して取れる対策がないという事実を説明。その上で国民に唯一実行可能である対策として、「時間稼ぎ」への協力を呼びかけた。
これは、まさにメルケル流記者会見の典型例と言える。過去には駄目押しとして「他に選択肢がないから」と発言し、世論の反発を買ったこともある。こうした内容だけを紹介すると、官僚的で味気ないものと思われがちな会見だが、実際にメルケル氏の記者会見に出席してみると、「意外に面白かったな」と思わせられることが多い。その理由は、メルケル氏が常に笑顔とユーモアを忘れないということにある。
「この会見場をご覧になってどう思われますか。1000人とは言いませんが、かなり大きな規模のイベントではないですか」と独メディアが中止を求めるイベント規模の適正さについて質問したのに対し、メルケル氏は感染防止ルールを順守することの重要性を強調した。
そして会場にいる記者たちを見渡し、「皆さんの中で、やってはいけないとされている手を顔に当てている人がどれくらいいるのか、じっと見てみましたが、何人か目に付きますね」とほほ笑んだ。さらに、隣に座ったシュパーン保健相が欧米文化であるあいさつの握手も当面は控えるべきだと説明したのに対し、メルケル氏はすかさず「握手の代わりにいつもよりほんの少し長く相手の目を見て、にっこり笑うということもできます」と新たなあいさつの方法を提案。会見場には笑い声が響き、和んだ雰囲気が生まれた。
今回の記者会見は、メルケル氏が初めて独政府としての新型コロナウイルス対策を国民に説明するという意味で「歴史的な会見」と位置付けられていた。こうした定義づけが行われたのは、メルケル氏がかつてたった一度の記者会見で国内の大規模な危機を回避させるという離れ業をやってのけた実例があったからだ。メルケル氏と二人で歴史的会見を行った元政権幹部が、記者にその舞台裏を証言した。
◇メルケル神話を生んだ歴史的会見の舞台裏
ベルリンのシンボルマークであるブランデンブルク門を見下ろす場所に、ペール・シュタインブリュック元財務相の事務所がある。広場を挟んで真向かいのビルは米国大使館という超一等地だ。国政第2党の中道左派、社会民主党選出のシュタインブリュック氏は2005年から09年まで第1次メルケル内閣で財務相を務めた。財政政策の専門家としての評価を決定づけたのが、08年秋に起きた世界金融危機「リーマン・ショック」への対応だった。
08年9月に米国の投資銀行リーマン・ブラザーズが経営破綻したことで、連鎖的な金融危機が発生。米政府の対応の遅れもあり、米国だけでなく世界で一斉に株価が急落し、10月に入ると「銀行が倒産するのでは」という信用不安が先進国に広がった。
メルケル氏はシュタインブリュック氏とともに10月5日、異例の日曜日の記者会見を開き、テレビカメラの前でこう述べた。「一つの金融機関の破綻を金融システム全体の破綻にはさせない」。さらに横に立つシュタインブリュック氏が「連邦政府は預金者が不安を抱くことなく、1ユーロたりとも預金を失うことがないよう努力する」と異例の預金保護にまで踏み込む発言をした。
「政府が預金を保証するという発言は、国民を落ち着けるためのある種のパフォーマンスだったのでしょうか」。18年3月に行った単独インタビューで、記者の質問にシュタインブリュック氏は独特の早口でこう答えた。「いえいえ。あの言葉と内容はもちろん中身があるものでした」。そして、「もし預金が消滅するような事態になれば、独政府が保護しなければならないと思いました。そうでなければ、政府機関に対する信用は、今後数十年にわたって失われたでしょう」と。当時、政府内には、「英国のように銀行への取り付け騒ぎが起きる可能性がある」という声が上がっていたという。
第一次大戦後のワイマール共和国で1931年に起きた金融危機では、預金を引き出そうとする人々が銀行前に詰めかけ大きな混乱を引き起こした。この光景が政府の指導力不足を象徴するものになり、ヒトラーによるナチ党独裁を招く一因になった。「(取り付け騒ぎは)ドイツでは歴史的光景を思い起こさせ、大パニックを引き起こす可能性があったのです」とシュタインブリュック氏。メルケル氏と共に「月曜日に銀行に預金者が殺到する事態を防ぐ」という目標を共有したという。その後も世界の市場で株価は続落したが、ドイツで取り付け騒ぎが起きることはなく、欧州最大の経済大国発の新たな混乱は回避された。
◇「メルケルする」 陰りが見える神通力
リーマン・ショックと今回の新型コロナウイルスによる危機の違いを記者会見で聞かれたメルケル首相は「銀行を救済するためにいくらの資本を投入すべきかが分かっており、コストをより確実に計算することができた」と世界金融危機を振り返る一方、新型コロナについては「その影響がどの範囲にまで及ぶのか見通すことさえできない」と警戒感をあらわにした。
ウクライナ危機(14年)やギリシャ財政危機などで発揮されたメルケル氏の神通力とも言える指導力が、目に見えて落ちるきっかけになったのは15年9月、ハンガリーに足止めされたシリアなどからの難民をドイツが引き受ける決断をしたことだ。これが難民流入の号砲になり100万人を超える移民・難民が入国。難民申請希望者によるテロなども相次ぎ、政権に対する国内世論は急速に冷え込んだ。
これがドイツでの排外的右派政党「ドイツのための選択肢」(AfD)の勢力拡大と、それに伴う国と地方の政治安定メカニズムの崩壊を招いた。欧州レベルでは、東欧諸国の反欧州連合(EU)世論に火をつけ、EUからの英離脱の遠因にもなった。
ドイツの辞書出版社が15年に公表した「今年の若者言葉」の候補に「メルケルする」(merkeln)という動詞が挙げられたことがある。「何もしない。決断しない。自分の口で説明をしない」という意味だ。難民受け入れ決定直後に沈黙したことや、多くの政策課題で世論の方向性が明確になるまで決断を先送りする政治姿勢を、若者たちが批判的に見て作り出した新語だとされている。こうした批判は今回の新型コロナ対応にも当てはまる。1月下旬にはドイツ南部バイエルン州で初の感染者が確認されていたが、3月まで対応策を国民に説明する記者会見を開かないなど、「メルケルする」姿勢が多くのメディアに批判されていた。
世界では今、トランプ米大統領やジョンソン英首相、ブラジルのボルソナロ大統領のように単純明快な政治主張を訴え、それに反対する人との対立を演出し、妥協を拒否して主張を押し通す「マッチョな政治」が存在感を増している。「ポスト真実」と呼ばれる彼らの手法は、メルケル氏が重視してきた客観的なデータに基づいて説得と妥協を重ね、より多くの人々が支持できる政策を見つけようというものではなく、都合の良い情報だけをかき集めた「物語」で、人々の怒りをかき立て、思うままに政治を進めようというものだ。
仏教の教えでは、自分の考えに反することがあると「ないがしろにされた」などと思いカッと怒る心を「瞋恚(しんに)」と呼び、必要以上にむさぼる「貪」や、真理に対する無知ゆえの愚かさを示す「痴」と共に、人が克服すべき根源的な煩悩(三毒)とされている。瞋恚は誰もが持つ感情であり、そういう意味ではポスト真実の政治は誰もが共感する土台があると言える。一方で、怒りとは無縁で、メンツにこだわらず、他人の悪口を一切言わないメルケル氏の姿は、まるで瞋恚を克服し悟りを開いた修行僧のようですらある。しかし、そうした政治スタイルは、とりわけ時代の変化に敏感な若者にとっては、時代遅れで変化に対応するパワーを欠いているように見えるのかもしれない。
メルケル氏は新型コロナ対策に関する記者会見で「私たちは国境閉鎖がこの問題に対する適切な答えではないと考えている」と断言した。しかし、会見からわずか5日後の3月16日には、実質的な国境封鎖に踏み切らざるを得なくなった。欧州難民危機の際に、「人と物とサービスの移動の自由」というEUの理念により守られてきた「開かれた欧州」に強くこだわったのが、メルケル氏だった。国境の即時閉鎖と難民受け入れの上限設定を求める政権保守派の声を抑え、自らの信念を貫いた。それから5年、メルケル氏は自ら思い描いた政権移譲構想に敗れ、党内基盤を失う中で、感染症という目に見えない敵を相手にした政権最後にして最大の危機を迎えている。
かつてメルケル氏と共に、ドイツを金融危機から守ったシュタインブリュック氏はこう予見していた。「メルケルさんが(21年秋の)任期末まで首相にとどまることはないだろう。彼女のことだ、マッチョを装う男たちとは異なる形で退くことでしょう」
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March 29, 2020 at 01:00PM
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