瞽女(ごぜ)さんを知っていますか? 旅をしながら家々の門口で三味線を弾き、唄う盲目の女性旅芸人のことです。今から50年ほど前、越後の街道や山を瞽女さんと一緒に旅をしてその姿を写真に残した人がいます。
写真家の橋本照嵩さんです。写真から伝わってくるのは、どんな境遇にもくさらず、たくましく生きた瞽女の日常であり、彼女らを温かく受け入れる村人の姿です。橋本さんに瞽女さんとの旅について聞きました。(ライター、編集者 金丸裕子)
「世話になった人を訪ねて村から村を旅し、すずめのさえずりで目を覚ます。村の風を感じ、瞽女宿の匂いの中、三味唄でさわぐのがいいんだがのう」
家々の門口に立って芸を行い、その報酬として金品を受け取る、いわゆる「門付け」をしながら旅をしたある瞽女は、橋本さんにそう語ったそうです。橋本さんは瞽女たちと一緒に旅をするうちに、ひたむきに大地を踏みしめて生きる様子に引かれていきました。
瞽女とは、生きるために三味線をたずさえ、村々を回って唄った女性旅芸人です。福祉制度のなかった時代、目の見えない女性が暮らしを立てる道は限られていました。幼い頃に「口寄せ(霊媒師)になるか、瞽女になるか」と親に問われ、瞽女を選んだ女性が多かったそうです。
旅する瞽女の姿は、昭和の初め頃までは日本各地で見られました。戦後になり、社会が変わるなかで瞽女たちは廃業していきました。現在、瞽女唄を継承する人々はいますが、瞽女そのものは消えてしまいました。
一緒に旅した50年前の風景
橋本さんは、越後の風土と暮らしの中で門付けをする瞽女さんを撮るために、1972年3月から1973年5月まで「長岡瞽女」とよばれる人たちと旅をし、撮影をしました。
風花が舞う春のあぜ道を、すげ笠をかぶり、重い荷を背負った3人の瞽女が縦一列に並んで歩くモノクロ写真に始まり、農家の縁側に腰掛けて瞽女が三味線を弾くのを夏服の少女たちが眺める一枚、湯船につかったり、唄を聴かせたお礼にもらった千円札を手に笑ったりするものも……。橋本さんの写真から瞽女たちが飛び出して動きはじめ、冗談を言い合いながら歩いたり、村人たちとばか話をしたり、三味線を弾いて唄いだすかのようです。50年前に旅をしていた瞽女たちがすぐ目の前にいるように感じられるのです。
改めて橋本さんからお話を伺い、瞽女の暮らしや文化、彼女らを見守ってきた地域性について、写真とともにご紹介していきたいと思います。
橋本さんが瞽女を撮りたいと思い立ったのは1970年でした。
「高田瞽女最後の親方だった杉本キクイさんが国の無形文化財に選ばれたという記事を新聞で読み、これをやりたいと思ったんです。『アサヒグラフ』に掛け合うと、お前に合っているかもしれないとすぐに取材許可が下りました。杉本キクイさんを訪ねると、養女の杉本シズさんが風邪で寝込んでいるから家には上げられないといわれました。杉本さんはもう旅には出ていないということでしたが、取材をする中で、門付けをしながら村を回っている長岡瞽女がいることを教えてくれました。翌年の春先に再び連絡をすると、シズさんが回復したからと、撮影させてもらうことができました」
不安定な生活を支えたシステム
瞽女のはっきりした起源は不明ですが、近世以前からあったともいわれます。それが生業として昭和まで長く続いた理由の一つは、不安定な生活を支えるための瞽女の組織が各地にあったことだといわれています。弟子を育て、生活支援を行い、巡業の手配をする組織もありました。各地の瞽女のなかでも、最後まで残ったのが越後の瞽女でした。昭和の初めには、越後だけでもたくさんの組織がありましたが、1970年前後には「高田瞽女」と「長岡瞽女」の二つになっていました。しかもどちらにも70代、60代の瞽女が数名しか残っていない状況でした。
「高田瞽女は、親方が一家を構えて、弟子を養女として迎えて、一緒に暮らしながら芸を伝えていく制度でした。高田瞽女最後の親方だった杉本キクイさんは、三味線に浄瑠璃の調べを取り入れていたそうで、親方それぞれが工夫をして芸を磨いていたようです。杉本親方は、芸も素晴らしいが、気遣いが並じゃない。非常に人格者でした。あの優しさで村人に愛されてきたのだと思います。長岡瞽女は、山本ゴイという名前を代々継いだ親方がいました。初代は長岡藩主牧野家から出たという言い伝えがある。親方の下にカアチャンと呼ばれる人がいまして、カアチャンがお弟子さんを取って三味線や唄を伝える、いわば家元制でした」
橋本さんが、3人で旅をする長岡瞽女を撮りたいと願っても、彼女らに出会うのは簡単ではありませんでした。
「当時、金子セキさんと中静ミサヲさんは60歳、晴眼で道案内役を務める関谷ハナさんは61歳でした。実家のある三島郡越路町から出発し、行先は、北魚沼郡、南魚沼郡、そして、小出、小千谷、長岡、出雲崎などの三島郡、柏崎のある刈羽郡と広範囲に渡っていました。越路町の駐在さんが『今度ばーちゃんたちは、どっちの方向へ行くんだ』と聞くと、西に行くと言って、実際には東へ向かってしまうんですね。それでなくても目が見えなくて人に世話になるのに、男なんてついてきたら困るということで、そう答えていたようです。人づてに金子さんたちの居場所を求めて、ようやく会える時もあれば、諦めて東京へ戻ることもありました」
あぜ道を通り、小さな山を越えて
瞽女たちは、毎年3月10日くらいにその年の初旅を始め、12月末の根雪が来るまで毎月のように旅に出ていました。手引きのハナさんが先頭になり、あとの二人は前の人の背や荷物に指先を触れて歩きます。背負った荷の中には、薬類や肌着、着替え、借りた布団の上に敷く黒い布が入っていました。アスファルトの道を避けてあぜ道を通り、小さな山を越えて村へ入っていきます。歩き慣れた土地には、昼間に休ませてもらう「昼宿」と、宿泊先となる「瞽女宿」がありました。瞽女たちは村の入口の商店で、門付けでもらった米を売り、瞽女宿へのお礼に渡す麦粉を買ったそうです。
「北魚沼郡のある瞽女宿では、その家のかあちゃんの母親が瞽女さんだったそうで、金子さんと中静さんが来ると2泊でも3泊でもしてもらいたい、『母のように懐かしい、姉のように思っている』と言って泣いていました。また、小国町の郵便局長さんは、『子どもの頃に瞽女さんが来ると、三味線を床の間に置くのが自分の役目だった。今もそうしている。おらんところの瞽女さんさ。頼りにしてくれるのがうれしい』と語っていました。瞽女さんが行き慣れた村々には、彼女らを大切にする宿があったのです」
かつて、越後では瞽女を宿泊させることはその家の地位の高さや権力を象徴することだったようです。瞽女の数が多かった頃には、瞽女宿は演奏場も兼ね、村人を集めて夜興行をしました。瞽女本人はもとより、瞽女の杖や所持品にも霊力がつくという民間信仰もあり、村人たちは喜んで米や銭を与え、宿泊させたのです。
瞽女は昼宿や瞽女宿に荷を置いて、村へ「さわぎ(門付け)」に行きました。門付けが終わると、家の人はご飯茶碗1杯分の米か、あるいは20円、30円のお金を渡していました。
「4月の旅の終わりに、瞽女さんの写真を1年間撮りたいから、来月初めはどこにいるか聞くと、『写真のう、撮ってもろうても、おらたち目が見えねすけえ、おら知らねえのう』と中静さんから言われ、『もう来んでもいいんだんが』と金子さんからは突き放されてこれからどうなるのか不安でした」
瞽女さんと気持ちが通じる
金子さんらの対応が変わったのは8月の終わりでした。
「関谷さんは人柄が良く、文字も読めなければ、自分の年も分からないという人なんですね。門付けをしていくときは、関谷さんが玄関を開けて『ごめんなんしょ』と明るく声を掛けるんです。夏の農家の繁忙期には家に人がいなくて空振りが続きました。ある時、おかしいと思って、私が裏へ回ってみると畑仕事をしていたんです。『瞽女さんが来ているから、銭こか米こをもらわれねえかの』と言うと、「おう、瞽女さんが来ているのか」と玄関まで出てくれました。百発百中なんです。9月になって瞽女宿に行った時には、金子さんが『この人、おらの男手引きだからよろしくお願いします』と言ってくれた。そこから受け入れてもらいましたね」
「瞽女宿にも泊まらせてくれて、金子さんが『あしたのおにぎりにしてください』と言って、私の分の米も出してくれるようになったんです。瞽女さんのもらい風呂の後で私も入りました。電気がついていなかったのでびっくりすると、『目あきは不便だのし』と中静さんが言って、みんなで大笑いしました。宿の人も『写真を撮って写真集にしてもらえるというのは豪儀なこったな』と協力してくれるようになり、瞽女さんたちの寝姿までも撮影できるようになったんです」
悲しみや苦しみを浄化した瞽女唄
長岡瞽女は野生的に力強く唄う。「さわぐ」の言葉どおり、門付け唄を聞けばわくわくし始め、小栗判官や白井権八の物語が奏でられれば心が動きだし、葛の葉子別れで涙を流す。演奏が終わると、瞽女と村人は世間話で盛り上がることもあったそうです。
「栃尾又温泉の自在館や神風館では、湯治客のかあちゃんが『瞽女さん、めずらしいでねえか、千円奮発するんだが葛の葉子別れをやってくれぇかのう』と言ってきました。おかあちゃんたちは、瞽女唄を聴いて涙を流し、悲しみや苦しみを浄化していたんですね」
「麻疹などの病気をこじらせて 視力を失った子どもが今よりも多かったらしい。幼い頃から三味唄の修業をし、旅稼ぎをさせてもらっているということが身に付いているのでしょう。テレビが家に入り、娯楽がいっぱいあるのに苦労して歩かなくていいじゃないかとよく言われたけれど、家に居て、ナスができたの、トマトが育ったのと聞いても、何もできなくて面白くないと金子さんは話してくれました。瞽女さんにしてみれば、旅をして門付けをすることが日常なんですね」
橋本さんの瞽女の写真には土の匂いがします。淡々としながらも胸に迫り、勇気を与えてくれる瞽女の演奏を思い出させてくれます。彼女たちを愛し、受け入れた村人たちの存在にも想いをはせたくなっていきます。(2022年6月28日掲載)
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
橋本照嵩 1939年宮城県石巻市生まれ。写真家。63年日本大学芸術学部写真学科卒業。写真集『瞽女』(1974年、のら社)で日本写真協会新人賞受賞。その後、日本各地の風土と暮らしの撮影を続けている。80年代には、韓国で「李朝民画」の撮影を担当し、「アサヒグラフ」誌上で谷川雁、井伏鱒二、埴谷雄高、小野十三郎、大岡昇平ほか人物写真を掲載するなど多方面で活躍。90年代にはリヤカーを引いて北上川の河口から源流までを撮影行。流域各地で野外展を開催する。2011年の東日本大震災では被災した故郷石巻に入り写真集としてまとめる。瞽女の写真は、『瞽女の四季』(1984年、音楽之友社)、『瞽女アサヒグラフ復刻版』(2019年、禅フォトギャラリー)、『GOZE』(2021年、禅フォトギャラリー)に収められている。
【ご案内】
橋本照嵩写真展「越後の瞽女」
会場 池田記念美術館(新潟県南魚沼市浦佐5493―3)
会期 2022年5月21日(土)~7月10日(日)
写真家の橋本照嵩氏が、1970年代に撮影した長岡瞽女、高田瞽女、はぐれ瞽女、ヘビ売りおいち婆、肥後琵琶法師、西山温泉、九州瞽女こんかいさんなど、アートスペース シモダが所蔵する橋本作品のうち231点におよぶ。
「斎藤真一生誕百年展」
会場 瞽女ミュージアム高田(新潟県上越市東本町1―2―33)
会期 2022年7月2日(土)~9月25日(日)
1960年代、瞽女に惹かれて越後を旅し、瞽女を独特の画風で描いた洋画家の斎藤真一氏。代表作《越後瞽女日記》シリーズは、瞽女の文化を広めることにも貢献した。生誕100年を記念した展覧会を開催。
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